市之倉が煙りを上げ始めたのは、鎌倉時代後半から。釉薬(ゆうやく)をつけない無釉山茶碗を数多く生産していたことが、当時の窯跡からわかっています。江戸時代に入ると「中窯」「水神窯」を中心に陶業が 盛んに行われ、灰釉之皿や鉢、片口など多数の日用品が製造されていました。 美濃焼産地の中で最も早く磁器を生産してきた市之倉は幕末になると 質の高い磁器の製品が完成。江戸幕府本丸御用・京都村雲御所御用等々を 仰せつかるようになり、美濃焼の先駆者として名声を高めました。

 明治維新後、日本は自国の物産紹介と欧州の技術を学ぶため、諸外国で盛んに行われていた万国博覧会に参加。そんな中で近代美濃焼の名工と 謳われたのが市之倉出身の加藤五輔(日本語輔)です。語輔は明治11年の パリ万博において名誉賞状・銅賞、明治26年のシカゴと明治33年のパリの各万博では銅賞を獲得。国内博覧会等においても数多く受賞をしました。 花鳥山水など伝統的図柄をモチーフに、コバルト等を使用した精緻な染付による数々の作品が国内及び欧米へ輸出され、世界的名評価を受けました。